勝宝山西大寺

南都七大寺のひとつ。叡尊教団の本拠地。


 
奈良時代に称徳天皇の発願によって建てられた官大寺。現在の御本尊は釈迦如来です。南都七大寺のひとつとして、奈良時代には薬師金堂をはじめ、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を誇る寺院でしたが、平安時代に一時衰退しました。しかし、鎌倉時代に叡尊によって再興されました。叡尊は、文歴2年(1235)、35歳の時に初めて西大寺に住し、90歳で没するまで、実に50年以上にわたって西大寺の復興に尽くしました。

 

華厳山東大寺

奈良の大仏さんがおわす大仏殿は世界最大級の木造建築


 
華厳宗の大本山である東大寺は、金光明四天王護国之寺ともいい、奈良時代に聖武天皇が日本の60余か国に建立した国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置づけ、国力を尽くして建立した寺院「奈良の大仏さん」として知られる盧舎那仏を本尊とし、古代から現在に至るまで広く信仰を集め、日本の文化に多大なる影響を与えてきました。古都奈良の文化財の一部として、1998年に世界遺産に登録されています。
永仁元年(1293)忍性77歳の時、東大寺大勧進 に任命されています。

 

霊鷲山極楽寺

忍性入山の寺。関東で弱者救済の寺。


 
鎌倉時代の六大執権・北条長時と弟業時が、当時、多方寺にいた忍性を招いて、文永4年(1267)に入山した真言律宗の寺院。境内には、忍性が粥を施したと伝えられ「極楽の井」や「千服茶臼」、「製薬鉢」などが残っています。寺の背後の山中(奥の院)にある忍性墓は、高さ4メートルの巨大な安山岩製の五輪塔で、中から発見された青銅の骨蔵器は、国の重要文化財に指定されています。嘉元元年(1303)7月12日、忍性はここで87歳の生涯を閉じました。
 

 

法性山般若寺

文殊菩薩を本尊にいただくコスモスの寺。別名コスモス寺ともいわれる。


 
寺伝によると飛鳥時代の629年に高句麗の僧・慧灌がこの地に寺を建てたのにはじまり、聖武天皇が天平7年(735年)に平城京の鬼門鎮護として大般若経を収め堂塔が整備されました。平安時代末期には衰退をしますが、鎌倉時代に叡尊によって文殊の霊場として復興され、文永4年(1267)には丈六文殊も発願されました。鎌倉期の優美な建築様式を持つ国宝「楼門」や十三重石塔が残ります。近くには「北山十八間戸」もあります。秋のコスモスなどが美しく、花の寺としても知られています。

 

生馬山竹林寺

行基とともに忍性の墓所もある文殊菩薩の寺


 
生駒山東麓に位置する律宗の寺院。奈良時代に架橋や治水などの社会事業で人々に貢献し、東大寺大仏の造営にも尽力した僧・行基が営んだ小庵で彼の墓所があることでも有名です。文暦2年(1235)の「竹林寺縁起」に記された夢告にしたがって掘り出された行基の「舎利瓶(骨蔵器)」や「墓誌」の一部は、奈良国立博物館が所蔵しています。寺内には忍性の墓所があり、昭和61年(1986)の発掘調査で「銅骨蔵器」(重文)、「石窟」などが発見されました。
嘉禎元年(1235)忍性19歳の時から6年間、毎月、竹林寺に参詣します。

 

信貴山朝護孫子寺

毘沙門を祀る聖徳太子ゆかりの信仰の山


 
信貴山真言宗の総本山。「寅の年、寅の日、寅の刻」に毘沙門天王の力を借りて世の中の平和を取り戻した聖徳太子がこの山を「信ずべき、貴ぶべき山」として信貴山と名付け、毘沙門天を祀る為の寺院を建立したのがはじまりと伝えられています。名高い「信貴山縁起絵巻」(国宝)をはじめ多数の文化財を所蔵しています。現在は、「信貴山の毘沙門さん」、「信貴山寺」などと呼ばれ、商売繁盛、必勝祈願、金運招福、合格祈願、など、庶民信仰の場としても広く親しまれています。

 

安倍山安倍文殊院


 
切戸文殊(京都市宮津市)・亀岡文殊(山形県高畠町)とともに三大文殊に数えられ、「安倍の文殊さん」と親しまれています。平安時代の陰陽師、安倍清明出生の寺としても有名。境内には快慶作の「木造騎獅文殊菩薩像と脇侍像」を安置する「本堂」や「安倍仲麻呂像」、「安倍清明像」を祀る「金閣浮御堂(仲麻呂堂)」、「文殊院西古墳」などがあります。巨大な獅子にまたがる総高7mの文殊菩薩像を4体の脇侍像が取り込囲む「文殊五尊像」は圧巻。
貞永元年(1232)忍性16歳の時より、毎月、安倍文殊院に参詣しています。

 

熊凝山額安寺

忍性を供養する五輪塔、骨蔵器が伝わっていた古刹。


 
飛鳥時代に聖徳太子によって建立されたといい、寺号の額安寺は、推古天皇の額に傷ができた時、薬師如来に祈願され快癒したので、その名を賜ったと伝えられます。墓所には忍性を供養する「鎌倉五輪塔」(重文)があります。またこの「鎌倉五輪塔」からは、忍性の骨蔵器(重文)が発見されています。門前の「明星池」の小島にあった日本最古級の石造り供養塔「宝筐印塔」は境内に移されています。現在、日本最古虚空蔵菩薩、忍性骨蔵器は文化庁に渡っています。
忍性16歳の時、母死去の際、剃髪をし額安寺で官僧として出家をしています。

 

北山十八間戸

般若寺の南にある忍性が建てた救済施設。


 
良観房忍性が不治患者救済のため、北山(奈良の北の山という意)の地に宿舎を設けたもので、はじめ、般若寺の北東に建立されたが、永禄10年に焼けたため、寛文年間に東大寺、興福寺の堂塔を南に眺められて、病の人々の養生にふさわしい今の地へ、鎌倉時代の遺風を承けついで建てられたものです。建物は十八の間数の他に、仏間をつけ裏戸に北山十八戸と縦に刻書があります。

 

荒陵山四天王寺

日本仏法最初の官寺


 
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
永仁2年(1294)忍性78歳の時、四天王寺別当を務めます。現在も四天王寺西門には忍性が建立した石の鳥居が残っていて、忍性の功績を讃えこの鳥居をくぐると足腰が良くなると言われています。

 

紫雲山栄福院浄土寺

忍性の生まれの里


 
忍性は現磯城郡三宅町屏風の里に生まれました。三宅は古代、天皇の直轄地「屯倉(みやけ)」が置かれた土地で寺川、飛鳥川、曽我川の流域には肥沃な耕地が広がっています。
忍性は幼少の頃より母親に連れられ文殊信仰を行っていました。母の文殊信仰の影響が大きく、後の忍性の人生を決定づけました。現在もこの地には顕彰碑が建っています。

 

多田神社(旧多田院)

清和源氏発祥の地


 
多田神社は天禄元年(970)に創建され、元多田院とも、また、多田大権現社とも言われ、関西日光の称ある大社です。御祭神は、第五十六代清和天皇の曾孫贈正一位鎮守府将軍源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公をお祀りしていることから、源氏発祥の地と言われています。建治元年(1275)忍性59歳の時、多田院の別当になり、復興に努められました。

 

金沢山称名寺

金沢文庫のお寺


 
正嘉2年(1258)に金沢実時が不断念仏衆を置く阿弥陀堂として創建されました。文永4年(1267)に下野から審海を開山に迎え戒律のお寺として改められました。元亨3年(1323)には金沢貞顕の絶大な援助により浄土式苑池と中心とした壮大な伽藍が整えられました。幕府滅亡後、次第に衰退していきますが、江戸時代には徳川家康から100石の寺領を与えられました。伝来の仏像・仏画・古書・文書などは金沢文庫が保管しています。